みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

わたしとインターネット

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

パソコン通信

30年くらい前ワープロを使っていた頃、ニフティサーブで「パソコン通信」というのをやっていた。電子会議室をのぞくと「歴史フォーラム」の中に、近現代史という分科会があるではないか。近現代史を学校で十分に習わなかった世代の私は、わくわくドキドキ。

「歴史フォーラム」近現代史のメンバーは、あちこちの大学の教員で中堅の研究者たち、私にとっては敷居が高い。おそるおそる首を突っ込んだところ、メンバーのみなさんは気さくで、私のトンチンカンな質問にも嫌がらずにていねいに応えてくださった。

当時の「歴史フォーラム」近現代史メンバーは実名を出してのやりとり、勤務先名から住所、電話番号まで明記している。現在のインターネット時代から顧みると、おおらかで隔世の感がある。メンバーの方々はパソコン通信でのやりとりを越えて、手紙や電話でも詳細な情報をくださった。

田舎の中学校での日本史の授業は、教師が教科書を読み、試験勉強のための年表暗記が中心だったから、面白くも何ともなかった。卒業近くになると授業時間も残り少なくなり、国際連盟脱退あたりで時間切れとなった。

当時の教師は旧制中学で軍事教練、兵器の部品作りをやらされた世代だ。予科練帰りもいたし、体育の時間に軍艦マーチをかけて、運動場を行進させられたことがあった。今になって思うに、教師自身がきちんとした近現代史を教わっていなかったのだろう。

茨城県結城市生まれの多田富雄氏(後に免疫学の世界的権威となり、文化功労賞や内外の賞を受賞)は、敗戦直後に旧制水海道中学に入学する。

著書の『落葉隻語 ことばのかたみ』に「旧制中学では私たちの上級生まで、教練といって戦闘行為の訓練が、学校の正規の授業に組み込まれていた。アフガニスタンやパレスチナのことではない。この平和な日本で、60年前まで十代の少年に軍事訓練が義務化されていたのだ」と書いている。

その後私は栄養短大を出て学校の栄養士になったものの、窮屈な公務員はしょうに合わず2年足らずで退職し、主に高齢者介護の仕事をしてきた。訪問先の爺さま・婆さまたちはほとんどが明治生まれか大正生まれ。男性は戦地に兵隊として征き、女性はほとんどが空襲体験者だった。戦争を乗り越えて生きてきた方たちの話は、体験したその人でなければわからない生々しさがあった。聞く側の私は、空襲や原爆は映画やテレビで知るだけ。太平洋戦争ではアメリカとばかり戦ったと思っていた。

 私の生まれ育った村では、戦火から遠く離れていたにもかかわらず、敗戦は駐在巡査一家に悲惨な心中をもたらした。村長は進駐軍の命令で辞職、国民学校長だった祖父も自ら辞職した。これも戦後生まれの私には理解できない謎として残った。

祖父が亡くなった1970年に、地元の教育同人誌に祖父を偲ぶ追悼特集が組まれた。その追悼文の中に、日中戦争が始まる昭和12年に旧飯沼村が「聖旨奉体教化村」に指定されたこと。「村長、学校長、駐在巡査は村の三長官として、戦争遂行に率先して協力することが求められた」と書いてあった。「聖旨奉体教化村」とは? 調べようにもどうしてよいかわからなかった。

 ところが「歴史フオーラム」近現代史の方々は「聖旨奉体教化村」についてもご存じで、中央教化団体連合会の機関誌「教化運動」が、国会図書館の隣にある憲政資料館にある程度保存されていると教えてくださった。

憲政資料館に行ってみると祖父の名前が掲載された「教化運動」は欠番になっていた。国民を戦争に導くための機関誌だから、敗戦と同時に焼却されても不思議ではない。やがて探している「教化運動」が、大分大学図書館で保管されているとの連絡が入る。

大分大学図書館に問い合わせ、コピーを送っていただくことができた。パソコン通信のネットワーク力に驚くばかり。

中央教化団体連合会機関誌「教化運動」第百七十六号 第176号(5) 昭和12年8月21日発行に、比叡山講習会場の写真とともに「全国教化関係幹部公民教育講習会」の記事が、「北支の空をにらみつつ、異常な緊張に終始」という見出しで記事が掲載されている。

「・・・特に今回の講習会は地方教化委員として、将来地方教化の第一線に立つ人士の養成を主眼とする最初の試みであるとして、青森から沖縄まで全国各府県から65名が集まった」

5泊6日早朝から夜まで、町村教化指導、国体の特質など盛りだくさんの講習内容。最終日には国民中央教化団体連合会制作の満州開拓の宣伝映画「明け行く大地」が上映された。祖父の「備忘録」には、参加費用として飯沼村役場から20円が支払われているので、出張だったのか。この講習会参加の翌年、祖父は地元飯沼村小学校に校長として転任する。

中央教化団体連講習会に村長が参加した沖縄県読谷村も「聖旨奉体教化村」に指定されている。沖縄が戦場となり米軍が押し寄せる中、住民が避難したガマ(洞窟)で集団自決が行われた。聖旨奉体を辞書で引くと、「天皇の言葉を忠実に実行する」となる。

沖縄県読谷村も旧飯沼村も「聖旨奉体教化村」に指定された気負いとまさかの敗戦が悲劇につながったように思える。

パソコン通信「歴史フォーラム」で近現代史のメンバーに助言いただいたことで、史料の探し方がわかり、敗戦時に故郷の村で起きたことを調べる道筋がついた。その後パソコン通信は、グローバルなインターネットの広がりと進化の波に押され、いつの間にか消えてしまった。アナログでおおらかな雰囲気のパソコン通信がなくなってしまったのは淋しい限りである。

 

ホームページに挑戦

「東京大空襲と下北沢」

2000年4月、日本ではじめて介護保険制度がスタートする。その前年に、介護支援専門員(ケアマネージャー)試験に合格した私は、世田谷区下北沢駅に近い在宅介護支援センターに就職する。フルタイム勤務でありながら身分は非常勤職員だ。利用者が介護保険を使うには、要介護か要支援の認定を受けなければならない。その認定調査は介護保険が始まる前年の後半からスタートした。

下北沢駅を中心とする界隈は、戦前の古い建物が残る。小劇場での演劇も盛んで、若者の集まる面白いまちとして人気がある。まだ下北沢駅の地下化工事は始まっておらず、敗戦時の闇市から続く食品市場が駅前にあった。

食品市場に住む70代男性の要介護度認定調査をするために訪問する。寄せ集めの木材で作ったようなバラックの2階建てだ。男性は妻を亡くして話し相手がいなくなったせいか、認定調査が終わっても話が終わらない。下北沢のまちに古い建物が残っていることについて「下北沢に焼夷弾が落とされた時、突然神風が吹いて焼夷弾は大原の方に流された。大原は焼けたが、神風のおかげで下北沢は焼けなかったんだ」と、いたずらっぽく笑った。

世田谷区の戦災史料を見ると、下北沢駅の隣の小さな世田谷代田駅は焼夷弾で全焼し、その付近一帯も被害にあっている。井の頭線と小田急線が交差する下北沢駅が無傷で残ったのは奇跡のように思える。私の探究心はまたもや頭をもたげた。休日や仕事の合間に住宅街や、駅周辺を歩いた。

私がケアマネージャーとして担当した大原に住む80代の女性は、焼夷弾によって隣にあった幼稚園まで延焼したが、風向きが変わって自分の家は焼け残った。「息子たちがお世話になった幼稚園だったので、園長先生や皆さんに申し訳なくて」と焼け残ったことを何度も悔いていた。彼女は3月10日下町を襲った東京大空襲の夜、空襲警報が鳴っていたが、狭い防空壕から抜け出した。真夜中なのに下町を焼き尽くす炎は、庭を昼間のように照らし出し、手にした新聞の文字が読めたという。

作家の一色次郎は下北沢の小田急線の線路土手に立ち、猛烈な西風に吸い込まれそうになりながら、真っ赤な火柱を目撃していた。火炎がごうごうと鳴る音が世田谷区まで聞こえたと書いている。B29は低い高度で一機ずついろんな角度から侵入し、波状攻撃を繰り返した。日本側の高射砲の音、サーチライト、曳光弾、ロケット弾… 

そこから1キロほど離れた太子堂に住む14才の脇さんは、いつもの空襲とは違う異常さを感じ、二階に上がり東向きベランダに上がった。世田谷から見る東は、当時の向島、深川、本所、浅草、神田などの下町だ。下町まで直線距離にして15㎞余り。東の空は一面暗い赤で染まっていて、断続してやや明るい赤、暗い赤が場所を変えていた。

焼夷弾や高射砲の音に混じって、ザワザワとした、あらゆる雑音の混じったような低い音が地鳴りのように連続して聞こえてきた。その合間に雑踏で聞くような人の声、高い声が混じっていた。焼夷弾を大量に落とし終えた爆撃機は去り、その分静かになったが、ザワザワとした低い音はますます強くなる。赤い色はさらに赤くなり広がった。と思うと赤い空をバックに、巨大な輝度の高い黄色い炎の円筒形の柱が下から盛り上がるように成長した。 

                                       火鳴りの底から  脇光夫さんが書かれた絵

 

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脇さんは火柱を、ローマの遺跡の円筒形の柱と同じような高さと太さと表現する。火柱はあちこちに立ち上がってはすっと消え、交代で常時4―5本立ち上がっていた。脇さんは当時呆然と阿呆のように火柱を見続け、火柱の下で何が起きているのか、十万人の人が焼き殺されたことなど想像もできなかったといわれる。

後になって思えば、火柱が立っていた間、聞こえてきた地鳴りのようなザワザワという音は、家や人が焼かれていく音、弱々しく断続する人の声のような高い音は、家族の呼ぶ声、叫び、うめきの集積音であったと思われてならないと話す。私は膝の上に脇さんから頂いた『火鳴りの底から』という本を置いて、身体が固まっていた。

山の手に位置する下北沢、太子堂の位置と距離は、焼夷弾攻撃の輪郭と破壊力の凄まじさをより鮮明にとらえることができた。脇さんは、「空襲下に防空壕を出て、靴を履いたまま2階ベランダに駆け上がるなんてのは、14歳のやんちゃな中学生くらいでした」と微笑された。

私の故郷旧飯沼村では、鹿島灘から侵入したB29の大編隊は低空でごうごうと飯沼村をなめるように東京の方角に向かって行った。編隊が戻ってくると東京の空が真っ赤になった。下町を襲った炎と強風は飯沼村にお札の形をした灰を降らせた。「こら造幣局がやられたなー」と村人は口々に話したが、それでも戦争に負けるとは思はなかった。父も「神風が吹いて勝つ」と本気で思っていたという。

私はこれらの聞いた話や撮った写真、調べたことをまとめて、ホームページを作ることを考えた。秋葉原に行き、ソニーのパソコンを購入。ソニービルのホームページを作る有料の講習会に参加したが、入力が遅い私はついていけず、HTML言語も覚えられなかった。

娘は私と同じく最初はワープロでパソコン通信をしていたが、パソコンを買い与えるとワード・エクセル講習に通い、ホームページを自分で作っているらしかった。

神保町にあるパルク自由学校という教室で、ホームページを作る講座を企画し、受講者を募集していた。内容や構成なども教えるというので、私は仕事が終わってから教室に直行した。一応文章を完成させることができたので、ホームページの入力は娘に頼むことにした。タイトルは「why? 東京大空襲と下北沢」、why? を入れたのは外国の人にも見てもらいたかったから。トップページに焼夷弾攻撃のB29とそれを追うサーチライトの光を娘に絵にしてもらい、トップページに入れることにした。被災地区の文章の隣には被災地図を入れた。

ホームページをインターネットにUPし、パルク教室の講師と仲間に、私のホームページができました。とメールで知らせた。講師、仲間から「がんばったね」というメールが届いた。パルク主催者の津久井さんから「私たちのクラスからこのようなページが完成したかと思いますと感無量です」という返信をいただいた。

 

ブログってなに ?

娘に「ホームページより、ブログの方が簡単だからやったら」と勧められた。ブログを知らなかったので、新しいことを覚えるのは気乗りしなかった。しかし娘は「ブログはHTML言語でなくても、普通に入力できるから母さんでもできるよ。はてながいいかな」と、設定と最初の入力をやってくれた。

 2004年11月27日ヤフージャパン・サーファーチームからメールが入る。ご推薦されたホームページ http://homepage3.nifty.com.kusyu/ 「why? 東京大空襲と下北沢」が、オススメサイトに推薦されたという。俳優のホームページと並んで紹介されているので、えーっと驚き、膝がガクガクする。ブログに「オススメサイト おめでとう」という見知らぬ人からのメールが入る。アクセス数が前日より1000増えている。カウントがくるくる動き、1時間で200ずつ増えているので、あわてて娘に連絡すると飛んできた。二人で夜まで「凄いね-」とパソコン画面を見ては驚いていた。

なぜヤフージャパンからメールが来たのだろうと不思議に思ったら、読者としてメールをくださった方が、早稲田大学の先生が手作りホームページとして推薦している中に、「why? 東京大空襲と下北沢」が入っていると教えてくれた。私はそのサイトを見ていないが、ヤフージャパン・サーファーチームはそこから拾ってくださったようだ。

娘がいうようにホームページよりも、ブログの方が書きやすかった。常連の読者がついたので、サボるわけにも行かずなるべく書き続けた。コメントが多かったのは、未破裂脳動脈瘤の手術の報告だった。私も不安で他の人の手術の記事を探したが、少ない情報しかなかった。手術は脳を切り開き、クリップで止める方法と、腿の付け根からカテーテルを脳まで入れてコイルを巻く方法がある。どちらもメリット、デメリットがあり判断に迷う。

その不安を医師に伝え、患者として希望することを話す。手術台に乗る決心と術後の経過報告を記事にしたところ、コメントや相談が続いた。「看護師です」という女性の相談もいくつかあり、医療従事者であっても脳の手術、放射線を浴びることへの不安は同じであることがわかった。手術後の経過を数年ごとに記事にして報告するつもりでいた。

ところが娘を亡くし、ショックとストレスで心身の不調が続いた。ブログを書く気になれず、気分転換に他社のブログに乗り換えた。移ってすぐに自分に合わないことがわかったが、何もする気にもなれず3年が過ぎてしまった。未破裂脳動瘤術後10年目の報告をする約束が気になって、はてなブログに出戻ったが、常連の読者はいなくなっていた。これも自分の身から出た錆。今は気分を入れかえ「書きたい時に書きたいことを書こう」という気持ちになっている。

最近見よう見まねでツィッターも始めた。つい覗いてしまうが、流れが速い上に緊張感をともなう。「ツィッターだらだら見ない」と書いた紙をパソコンの脇に貼ってあるのを、亡き娘と同じくらいの年齢の女性に見られてしまった。ゲラゲラ笑いながら「ボケ防止にいいんじゃない」といった。