みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 78年目の東京大空襲の日に

ボーっと夕方のニュースを見ていて、3月10日は東京大空襲の日であることに気がついた。

私は2000年、世田谷区の下北沢に介護保険制度のケアマネージャーとして通勤していた。その頃はまだ明治生まれのお年寄りや、徴兵されて戦地から帰還した人たちがいた。高齢者宅を訪問し心身状態を聴き、要介護度の認定調査をし、介護支援につなげる仕事から始まった。祖父母に育てられた私は、お年寄りと話すのが苦にならない。

 

    下北沢という街

下北沢の駅周囲には戦後の闇市の面影を残す市場が最近まで残っていた。戦地ラバウルで高射砲を撃っていたために片方の耳が聞こえなくなった人という人…。

ラバウルってどこにある島か、どんな戦いをしていたのかを帰宅してから調べる。歴史に関心がある私にとってまさに宝の山に思えた。

身体中に砲弾の破片を浴びたという男性は、齢を経てからその砲弾が肉体を蝕んで痛むのだと言う。衛生兵として戦地で働いたという男性は、いくら勧めても国の世話にはなりたくないと介護サービスを拒絶する。

 

公園に面したお屋敷に住む男性は認知症になって、訪問看護師から入浴サービスを受けていた。月に一度の訪問日。男性の妻に応接間の長椅子に誘われ並んで坐った。

ケアプランを前に、今後のことなどを話し合う。妻が「ガダルカナルのことばかり言っていたのに、認知症になってからは戦争のことはすっかり忘れ、会社のことばかり話すようになって…人肉まで食べて生き延びたというのに」と淡々といわれた。向かいの本棚の『ガダルカナル』というタイトルの本が目に入る。

私は思いがけない言葉に頭の中が真っ白になり、言葉が出なかった。高齢の彼女は息子夫婦に依存せず、夫を信頼できる施設に入れる手立てを完了していた。芯のしっかりした「武士の妻」を偲ばせる女性だった。

 

    下北沢から見る東京大空襲

下北沢駅周辺は建物疎開し平地にしたせいか空襲の被害は少なかった。B29による3月10日の江東区墨田区など下町を襲った焼夷弾の炎は、何本もの火柱となり、渦巻きながら夜空に立ち上がる。その光景を高台の自宅ベランダから見た当時の中学生脇さんは、消えては立ち上がる火柱の渦巻きに悲鳴のような叫び声が混じっているのを聞いた。

その炎の柱は高台に位置する下北沢周辺の住宅の庭を赤々と照らし、深夜なのに新聞の文字が読めたという。

同じ日の夜、茨城県石下町の私の郷里では、鹿島灘から東京めがけてB29の編隊がくまん蜂のようにウヮンウヮンうなり声をあげて飛んでいった。編隊が戻ってくると赤い炎が立ち上り、強風にあおられお札の破片が降ってきた。「こら造幣局がやられたな」父や村人は東京の方角を見ながら話したという。

下町の空襲で炎に焼かれた親子、戦地で餓死したり人肉まで食べて生き延びた人、国民を戦争に導いた人。戦争の時代に生きた人それぞれの人生があり、今もなお戦争の足音は絶えることがない。世界中の人々が過去の戦争のことを知り、語り合い、平和を求める動きが広がることを願ってやまない。