みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

  巨大な火柱の下で

          
          脇三夫さんの絵 「火鳴りの底から」 
 
 野口悠紀雄オンライン「超」整理日記 ゛昭和20年3月10日″にリンクできなくなっていた。ことに遅ればせながら気づいて慌てる。あちらがレイアウトをリニューアルしたためとわかり、ノグラボ担当者に教えてもらった方法で復活できた。
 一色次郎と脇さんが世田谷区から見た下町を焼き尽くす巨大な火柱。当時14歳の中学生だった脇さんは、火柱の下で何が起きていたのか想像すらできなかった。

 その巨大な火柱の下に、4歳の野口悠紀雄さんは閉じ込められていた。焼夷弾の火災に追われ、家族と共に近くの小学校の地下に掘られた防空壕の中に避難した。重い扉は火の侵入を防ぐため閉じられた。防空壕に入れなかった人は、高温の炎に巻かれて、あっという間に髪や衣服が発火する。炭化したおびただしい焼死者は山をなした。
 防空壕の中はというと、酸欠状態になり、奥の方にいた人たちから窒息して行った。野口さんたち家族は入り口付近にいたため、隙間からわずかに入る空気によりかろうじて助かった。火災の消えた後に扉が開けられ、意識を失って倒れているところを助け出されたのである。
 3月10日の下町無差別爆撃で十余万の人々が犠牲になったといわれる。炎に追われて逃げ惑う当事者は、当然ながら頭上に巨大な火柱が渦を巻いていたことを、その火柱を目撃していた人がいたことを知らない。
 今、野口悠紀雄さんがスタンフォード大学の客員教授としてアメリカに招かれていることに、運命の不思議さを感ぜずにはいられない。年齢を重ね50余年を経た今、野口さんは自分が生かされたことの偶然とその意味を振り返る。

 世田谷区自宅2階から呆然と火柱を見続けていた脇さんは、後になって自分が火柱を目撃し、ざわざわという人々の焼かれる音、悲鳴を聞いたということは、犠牲になった人々の、「聞き届けてくれ」というメッセージを託されたのだと受け止めた。
 昨年、すみだ郷土資料館が東京大空襲体験者の絵を募集した時、脇さんは「平和のためになるなら」と見たままを絵に描いて出した。今年の春に、すみだ郷土資料館で企画展「描かれた東京大空襲ー絵画に見る戦争の記憶」が開催された。あらゆる所から目撃された東京大空襲の絵の中に、脇さんの「火鳴りの底から」があった。
 戦争や戦災に遭遇するということ、人が生きるということはそういうことなんだろう。何十年も経って、埋もれていた個々の体験やあいまいな記憶が繋がって形となったり、啓示のように気づかされることがある。

 野口悠紀雄「超」整理日記゛昭和20年3月10日″ご覧になりたい方は、『why? 東京大空襲と下北沢』゛炎と風と″からどうぞ。