みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

kawanomiti2005-03-10


東京大空襲

六本木ヒルズテレビ朝日1階 で東京大空襲60年の会主催 今こそ真実を伝えよう 東京大空襲展 に行く。体験者の絵と被災地図、資料を見る人でいっぱい。年輩者が多い。体験者同士が、テレビはきれいごとよね、あんなものじゃなかった」。地図を指し示し「ここなんて蒸し焼きよね。もう死臭が・・・」と被災地図を見ながら話している。
 
 画家の狩野さんが自分の描いた絵を何枚も見せながら当時の体験を話した。
 3月10日、都立中学2年生で14歳だった狩野さんは浅草千束3丁目に家族と住んでいた。昼間軍事工場の勤労動員に行き疲れて寝ていた。焼夷弾爆撃が開始され、家族とともに隅田公園に逃げた。B29の機体に火災の色が反映して赤い色なのが不気味だった。
 隅田公園は普段は高射砲陣地になっており、立ち入り禁止だったが、大勢の人が炎に追われて逃げ込んだ。その隅田公園も火に包まれ、家族とはぐれた狩野さんは言問橋の近くの川に下りる階段に避難する。熱風と火の粉から逃げるため、川に逃れた人は川から出ている顔を焼かれたり溺れて死んだ。熱風で息も絶え絶えの狩野さんに、男性が鉄カブトをぬいで水を汲んでかけてくれた。
 言問橋の上は浅草方面から逃げてきた人と向島から逃げてきた人が橋の上でぶつかり、身動きのできない状態だった。消防車も橋の上で立ち往生し、消防士がホースで荷物や人に放水をしていた。
 とうとう橋の上に火が走り橋の上が炎に包まれた。火がついたまま川に落ちる者、天皇陛下万歳と叫んで飛び降りる者もいた。狩野さんは意識を失い、目を覚ました時は朝になっていた。火は消えていたが、周囲は死んだ人ばかり。助かったのは自分一人だった。鉄カブトで水を汲んでかけてくれた男性も川の中で死んでいた。
 言問橋の上は黒焦げの死体の山であった。
 消防車と消防士が持ち場についたままの姿勢で黒焦げになっていた。昼過ぎ兵隊がトラックでやってきて死体を運んだ。原型を留めない遺体をスコップでザクザクッとすくって荷台に投げ込んでいた。今もその音が耳から離れないという。
 橋の上は遺体の焦げる臭いに満ちて、焼死体の油がザーッと流れていた。言問橋の下の川底には死体が幾重にも重なって沈んでおり、いくら引き上げても死体が出てきたという。
 狩野さんは1週間後に家族全員の死を知らされた。狩野さんは14歳にして生き地獄を目の当たりにし生還したのである。家族7人で逃げ、自分だけ助かった負い目から、狩野さんが当時の絵を描けるようになったのは昨年になってからといわれる。
 あまりに悲惨な話に来場者は涙ながらに話に聞き入った。
 最後に狩野さんは声をふり絞るようにいわれた。昭和天皇が空襲の被害を視察した時、道端に転がっている死体は前もって片付けられた。もし、昭和天皇が黒焦げの死体を目にしていたなら、戦争の終結はもっと早くなって、多くの犠牲を出さずに済んだものを、と。