みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

岩倉使節団の話

今日はぽかぽか陽気なのでうれしい。麦藁帽子かぶりベランダで作業をした。古い土をフルイにかけて根などを取り除き、熱湯をかけて土を消毒する。
後で、生ごみやぬかを入れて来年のために土づくりをする。来年も緑のカーテンを作るのだ。

昨日は「幕末から明治へ 近代国家の骨組みはどう作られたか」という連続講座に行った。
第1回は廃藩置県についてだった。昨日2回目は「岩倉使節団の派遣と留学生の活躍」
講師はノンフィクション作家の泉三郎氏。「堂々たる日本人 知られざる岩倉使節団 この国のかたちと針路を決めた男たち」の著者。
明治4年、王政復古、廃藩置県のすぐ後に政府の要人らの大使節団が632日間の世界一周の旅に出発したのである。新しい国を作るんだという意気込み、各藩、幕臣まで混在する、スケールの大きさに度肝を抜かれる。
まず最初に到着したアメリカは南北戦争が終わったばかり、イギリスはビクトリア女王の時代だ。産業革命を経て、石炭などの動力がフル回転し、ロンドンはスモッグがたちこめていた。
2時間の講義なので、使節団の全容と流れ、ポイントの紹介で終わったが、軽妙な語りがおもしろかった。幕末から明治へ、という時期は日本をダイナミックに変えようという清新なエネルギーが爆発した時代だったんだね。
この視察の後、富国強兵へと国の針路を決め、徴兵制を導入、学校教育も軍隊式、天皇の利用などを考えると、私には岩倉使節団の成果を手放しでは喜べない気もする。

講義の後の質問の時間に、西郷隆盛使節団に加わらなかった理由と、もし使節団に加わっていたら、大久保利通と袂を分かち、征韓論西南戦争へと傾斜していく西郷の生き方に影響を与えたと思うかと、聞いてみた。
泉氏は、大久保利通はどうしても使節団に参加したかった。西郷は、天皇にお前まで行くことないだろうと引き止められたという説(笑い)を紹介。たしかに木戸孝允大久保利通伊藤博文ら、新政府の主要メンバーが長期にわたりほとんど出かけてしまうのだ。今では考えられない。
もし西郷が使節団に参加したとしても、彼の生き方は「変わらない」というのが泉氏の答えだった。それは西郷という人物の精神性というか哲学によるものということだった。薩摩藩から使節団に参加した何とかいう人も西南戦争で西郷に殉じたという。

終わってから、薩摩出身で西郷隆盛のファンという女性から「よい質問をしてくださいました」とお礼を言われる。
私が素人的発想ですが、と前置きしたためか、泉氏は素人は西郷を好み、玄人は大久保が好きだという話をした。私は素人だが、西郷隆盛のファンではない。それは私が茨城県出身だから、ということと関係ない。西郷のカリスマ的魅力はわかるが、血生臭い武士道にはついていけないし、カッコイイと思わないからだ。
私は思想らしい思想を持ち合わせていない好奇心と想像力だけの人間だ。だから、人はいつの時代、どの場所にいたか。何を読んで、どんな人と会ったかで、頭の中がどのようにも変わると思っているところがある。
だから、もし西郷が岩倉使節団のメンバーに入っていたら、あのような最後を遂げずにすんだかしら・・・と考えたのだが。

この一年間、先の十五年戦争に関係するありとあらゆる本を読みまくった。なぜあのような無謀な、負けるとわかっている戦争をはじめたのか。明治までさかのぼらないとだめだ、と思っていたところに、この講座「幕末から明治へ 近代国家の骨組みはどう作られたか」を知り、申し込んだ。

次回は通貨切り替えと財政状況はどう変わったか。経済は苦手なので、居眠りするかもしれない。