みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

天皇誕生日の会見記事から

昨日は天皇誕生日だった。戦後60年の節目の誕生日、年の瀬に天皇が何を語ったか、いくつかの新聞を読んでみた


東京新聞 (ホームページ)

サイパン『心の重い旅』 天皇陛下72歳に

 天皇陛下は二十三日、七十二歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見し、六月に米自治サイパン島を慰霊訪問したことについて「(サイパンでの)六十一年前の厳しい戦争のことを思い、心の重い旅でした」と振り返った。

 会見で陛下は、日本人戦没者三百十万人のうち、海外戦没者が二百四十万人に上ったことを指摘。「戦後六十年にあたって、私どもはこのように大勢の人が亡くなった外地での慰霊を考えた」とサイパン慰霊の動機を語った。 (以下 略)

朝日新聞 の見出し   サイパン心の重い旅でした
毎日新聞        戦後60年 「過去への理解、大切」
読売新聞        「清子尽くしてくれた」 天皇陛下 きょう72歳

 読売新聞の見出しはないよね。でも別枠の囲み記事で会見内容が詳しく掲載されていた。これは私にとって収穫だった。


 戦争の記憶や歴史認識について 「日本は昭和の初めから終戦までほとんど平和なときがありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは、日本人自身にとって、また、日本人が世界の人と交わっていくうえにも極めて大切なことと思います。
 戦後60年になって過去の様々な事実が取り上げられ、人びとに知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により、過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」。

 
 私は最後の、多くの人々の努力によって過去の様々な事実が取り上げられ、知られるようになった、という部分に目が止まった。
天皇、皇后が勉強家で賢いことは、進講した学者から直接聞いたことがある。戦争についても事実を様々な本から学んで、サイパンへの慰霊を決断するにいたったことがうかがえる。と同時に、そういう地道な調査、聞き書きの取り組みに対して、天皇が多くの人々の努力によって、と言及していることに胸がつかれた。

 今年7月に新潮社 から出版された梯久美子(著) 『散るぞ悲しき』を読んでいて、思いがけなく現天皇が登場するところがあった。
東条はアッツと同様にやれと、玉砕を前提に栗林中将以下少年兵、軍属を含む2万余の将兵硫黄島に送った。米軍の日本本土上陸を少しでも遅らせようと過酷な環境で、想像を絶する戦いを最後まで続けて玉砕したのだ。

最後の章 
 栗林中将が玉砕を目前に大本営にあてて発した訣別電報と辞世の歌は改ざんされて新聞に発表された。

 栗林忠道 辞世の歌
 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果てて散るぞ悲しき

  大本営は 散るぞ悲しきを、散るぞ口惜し と改ざんし、新聞に発表した。

 平成6年2月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った。とある。

 精魂を込め戦いし人未だ地下に眠りて島は悲しき

 筆者はこれは偶然ではあるまい。49年の歳月を超えて、新しい時代の天皇は栗林の絶唱を受け止めたのである。死んでいく兵士たちを、栗林が「悲しき」と詠った硫黄島の地で。と書く。


 私は『散るぞ悲しき』を読んで、天皇はここまで真摯に向きあっているのかと驚き、泣けた。

戦争当時小学生だった天皇皇后には戦争への責任はない。だが、正しい事実認識の大切さと継承というスタンスを鮮明に言い続けることに、世の中の流れがそうではないだけに、共感し感動する。天皇制の是非の問題は別にして。