みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

禍福はあざなえる縄のごとし

今日は私にとって災難の総仕上げというか、ひどい日だった。
でも、棟の代表も来月で終わり、しばらく当番は回ってこない。

久しぶりに図書館に行き、手にとった「週刊金曜日」に、辺見庸の連載があった。
タイトルは、自分自身への審問 
脳出血で倒れてその後どうしているのかなと思ったら、ガンまで見つかったとは。
文章を読みながら切なく悲しい気持ちになったけど、辺見庸自身が審問しているように、なるべくしてなった、落ち着くべきところに落ち着いたという気がしないわけでもない。
辺見庸に自殺は似合わない。でもそう言葉にするのが怖い。

よく友人と「生きていても仕方ないけど、死ねないわね」と、自らを笑う。そういいながら筋力トレーニングをやり、身体によい食べ物を食べる。われら凡人はこんなところだ。

夫が病に倒れて動けなくなると、生き生きして介護に献身する妻がいる。この夫婦は敬虔なキリスト者だ。
活動的で、しかも女性にもてて家庭によりつかない夫であったなら、病に倒れた夫をやっと掌中に還ったと内心喜ぶ妻もいる。

このように人の禍福の感じ方なんて、はかり知れないものがある。

ベッドで苦悶する辺見庸の自問に、親しみと安心感をおぼえるのはなぜだろう。