みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

「ペリリュー島 茨城県水戸歩兵第二連隊」

昨夜はBSハイビジョン特集 証言記録兵士たちの戦争「ペリリュー島 茨城県水戸歩兵第二連隊」のドキュメンタリーが放映された。大正9年生まれの父が入隊するはずだった水戸第二連隊、どういう戦場に赴いたのか興味があった。

ガダルカナルとかルソン島硫黄島の戦場に比べ、ペリリュー島という戦場は陰に隠れていたというか、私は未知だった。
ペリリュー島の戦いは、硫黄島の過酷で壮絶な戦いに負けず、というよりもっと地獄に近い状況に思えた。
食べ物も水もない洞窟の中に陣取り、玉砕することも許されず、持久戦を強いられた。圧倒的物量の米軍との死闘の実態は、米兵がいる真下の洞窟の中で錯乱して仲間に殺される者、小便を飲み、仲間の人肉を食べる者までいたと証言する80代の元兵士ら。茨城なまりの証言に胸が衝かれる。
しかも連隊長ら指揮官が自決したのも知らず、終戦も知らなかった。投降し、生還できたのは34人。米軍を驚愕させた戦いぶりは戦意昂揚のために美談として宣伝され、戦死した兵士は英霊として奉られた。


私の父は小学校の教員になった翌年の昭和16年3月20日、水戸第二連隊に入隊せよと赤紙がくる。
1週間後の入隊の日はブラスバンドを先頭に日の丸の小旗を持った全校生が長い行列を作って学校から駅まで見送ってくれた。プラットホームに並ぶ生徒や一般の人の歓呼の声に送られて汽車に乗ったのである。
ところが入隊時の兵隊検査で「肺先浸潤」と診断され、即日帰郷となった。当時、肺結核がいかに恐れられていたかがわかる。お国のために戦って死ぬことが誉れであった時代、父はどんなにかショックで肩身が狭かったろう。帰郷して1週間布団を被って寝ていたという。生徒や村人からもらった餞別は返して廻った。
さて父は入営は断られたのに、治療もなくそのまま学校に復帰した。父の肺結核は大したことはなかったようだ。その後病気らしい病気もしないで米寿を迎えた。

郷里の父はこの番組をおそらく見ていないだろう。もし、観たら、兵役を免れた幸運をかみ締めたかも知れない。