みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

昨日は終戦記念日

昨日、東京は35度の猛暑日。新規契約の訪問に、一番暑い午後1時を指定されたので、灼熱のコンクリート道路を自転車に乗って行く。頭がクラクラし思考停止状態、いつまでこの暑さは続くのか。家に帰り、夕食を食べ終えるとベッドに倒れこむように寝てしまう。というわけで、夜のテレビは録画しておいて休みの日にみることになる。

顧客に先祖が薩摩出身の90歳の男性がいる。島津家の分家に連なる子孫だそうだ。NHK大河ドラマ篤姫」が話題になることがある。
島津斉彬という人は偉かったそうですな」。と一度も鹿児島に行ったことがない島津さんはいう。
前回の「篤姫」は桜田門外の変だった。島津さんは、水戸の浪士が井伊直弼を襲うことになるまでの経緯が省略されていてわからないという。なるほどそうかもしれない。

私は茨城県出身だからというわけではないが、吉村昭の小説等で水戸藩の政治的背景はある程度知っているので、既定の事実としてみたが、ドラマの流れとしては唐突であったかもしれない。「篤姫」は幕末の時代を女性の視点からホームドラマ風に描いているので、政治的な部分はさらりと流している。

私が薩摩藩について最初に記憶にとどめたのは、若い頃、沖縄の旅によってである。当時は鹿児島港から沖縄に行く船が出た。桜島の前を沖縄航路の船が滑るように出港する。船上から眺めたあの日の桜島も美しかった。石垣島から八重山諸島に旅して、薩摩藩による沖縄支配、年貢の取立ての厳しかったことがあちこちに記されていた。
篤姫」でも薩摩藩の密貿易、沖縄の物産が献上されていることがちらっと出ていた。
水戸藩薩摩藩は幕末のある時点までは浅からぬ因縁で結ばれていたようだ。しかし、勇壮な桜島を見て育ち、沖縄を支配して密貿易や外国との接点があった薩摩藩と、農村主体の、山といえば877メートルの穏やかな筑波山に立てこもるしかない茨城県ではまず土台が違う。水戸藩では凄惨な内部抗争で人材が枯渇し、明治政府に人材を登用されることもなかった。

その後白州正子の本で、示現流に代表される薩摩隼人の熱く激しい気性を思い知らされる。その熱い思いとエネルギーは明治維新への原動力となっていったが、薩摩藩長州藩と張り合いながら明治新政府を作り、富国強兵を目指して近代日本の礎を作ったことへの恐れ、危なっかしさを漠然と感じざるをえなかった。

最近、今年出版された『「昭和」を点検する』という保坂正康と半藤一利の対談本により、日本の軍隊は海軍が薩摩藩、陸軍が長州藩出身で固められていたことを知る。幕府を倒すため薩長同盟を作ったものの、もともと薩摩と長州は仲が悪かった。

だから海軍と陸軍は情報を隠し、足の引っ張りあいをしていたのか。これでは戦争を拡大し、米英相手に負けるのは当然ではないかと愕然とする。
特攻や玉砕という作戦は追い詰められて仕方なく選択した手段だと思っていたら、もともと陸軍は明治から肉弾突貫作戦だったとある。武器がないことを兵士の肉体でカバーしていくという戦術で、ノモンハンでもあったというから驚く。

昨夜のNHKスペシャル「果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦」でも海軍の誤った情報をもとにレイテ島作戦が立てられ、途中で情報が誤りであったことがわかるが、作戦は中止されることなく、大本営に戦い続けることを強いられる。
戦う武器も食べ物もなくレイテ島に送られた兵隊の97パーセントの8万人が餓死、あるいは武器も何もない姿で突撃して、無残に死んでいった。アメリカ兵、島民を合わせると10万人が死んだ。それから64年が過ぎたが、日米を問わず生き残った兵士は悪夢にさいなまされ、心に傷を抱え続ける。

戦争とは割りにあわないものだなとつくづく思った。

『「昭和」を点検する』 に330万人も死んだあの戦争で、多くの計画や作戦を起案した人の責任は大きいが、、ほとんどの指導者が仕方がなかったと自分の都合のよいかたちでしか語らないで亡くなっていくというのは、歴史的な責任感が希薄すぎる。しかし、関東軍の資料などが旧ソ連に多く眠っている。「昭和の点検作業はまだまだこれからです」と結んでいる。

長生きして、その点検の成果を読みたいと思う。