みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

初冬の東郷神社

通院している眼科が原宿駅近くにあって、最初はクリニックの案内どおりに竹下通りを通って行った。竹下通りというのは若い子たちのメッカみたいな場所で、道の両側から流れる音楽といい、私のようなオバサンは場違いもいいとこ。たまたま東郷神社のわきの道を通っても行けると教えてくださる方がいて、最近はそちらを利用している。
今日は久しぶりの青空なので、東郷神社境内に入ってみた。もみじの紅葉と散りかけたイチョウの黄葉が日に映えてきれいだ。同じ原宿駅に向かう通りなのに、静と動、まるで次元の異なる空間が唐突に並んでいるのがおもしろい。池に面した東郷記念館の中に水交社がある。ここで、日本海軍の幹部たちが戦後自らの責任を徹底的に議論し、録音テープを極秘裏に遺していた。
その「海軍反省会」の記録をもとに、今年の8月9日から3回にわたって放映された「海軍400時間の証言」は、戦後生まれの私にとって驚きと発見の貴重な内容だった。

さらに今年の12月7日、NHKスペシャル 日米開戦を語る「海軍はなぜ過まったのか」は、「海軍400時間の証言」をもとに、澤地、半藤氏、戦後生まれで「海軍反省会」録音テープの解明に携わってきた戸高氏の3人による対談だった。ポイントが整理されて核心部分がより明らかになり、わかりやすかった。
海軍軍令部(参謀本部)のほとんどが実戦経験の少ないエリート集団であった。予算を分捕るために、皇族伏見宮博恭をトップに据えその権威を利用した。この宮様は日露戦争の実戦経験があるため、単なるお飾りではなく、口も出し、人事にも介入した。しかも頭の中は日露戦争当時のまま。皇族がトップであるため、戦争の大義や勝算を十分に問うこともなく、組織の利益を優先し、日米開戦に突き進んだ。

予算獲得のため、金のため身を売った海軍。ミッドウェー海戦から負け続けても誰も責任を取ろうとしない。餓死と玉砕を繰り返し、若者を特攻に送り出していった。日本人だけでも310万人が死んだ。
司馬遼太郎は昭和の戦争の時代を魔法にかかっていたといっていた。半藤氏は。国民は催眠状態であったことが、戦争への熱狂につながったという。

3人の議論を聞いているうちに、なんか今の時代と似ているな、と苦笑。事業仕分けで明るみに出た、国民より自分の所属する組織が大事という官僚組織の予算の分捕りと変わりないではないか。
「軍馬より兵士は安い」1銭5厘の召集令状で勝算のない戦場にどんどん送られた兵士たち。都合よく働かされ、クビになると住むところもなく、放り出される派遣労働者がだぶって見える。
介護保険制度も、現場を知らないエリート厚生省官僚が机上で立案し、走りながら考えると拙速でスタートした。私がいた介護保険制度の現場も混乱し振り回され続けた。
明治時代に西洋諸国から国造りを学ぼうと岩倉使節団をはじめ、軍人、経済人、文化人が勉強しに渡った。それらの国々は富国強兵政策のモデルとなったが、その後、幾つもの戦争や、改革を経て、それぞれ民主主義の国となった。日本ではやっと政権交代が実現したが、まだまだ。