みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

ひいおじいさんの生きた時代 その1

毎年元旦には実家に行き、両親や弟たちと昼食を共にする。
晦日に吹き荒れた北風も治まり、冬枯れの里山は穏やかな正月らしい天候に恵まれた。


もっか私のテーマは父の祖父、私にとってはひいおじいさんにあたる人物について知ること。
1841(天保11)年生まれで、坂本龍馬篤姫よりは後に生まれ、福沢諭吉と同い年。
とはいえ、我がご先祖様は代々農業を営む家に生まれた名もない庶民、家系図もなければ写真も残っていない。お寺に残っている過去帳、地元の実録に残るわずかな記録をたよりに人物像に迫るしかない。

なぜひいおじいさんに関心があるかといえば、ひいおじいさんって近い先祖のはずなのに、謎の多い人物なのだ。それはひいおばあさんと結婚した時40代後半で、妻と親子ほど年齢が離れていた。一人娘、私の祖母が生まれた時は54才になっていた。祖母が13、4才の時にひいおじいさんは亡くなっているから、私の父は自分の祖父を知らない。
娘である祖母は父親の事を話すことはなかったし、私が「なぜ父親の写真も肖像画もないの。おばちゃんのトーチャンってどんな人だったの?」と聞いてもそっけなく「碁を打ったり、三味線弾く趣味人だったんだよ」でおしまい。そのくせ母親の写真、肖像画はあり、額に入って祖母を守護神のように見守っていた。どうも家庭的ではなく家族に疎んじられた父親だったのか。


このひいおじいさん、いつの時か、家をたたみ財産(田畑)を親類に預けて仏門に入った。当時は寺子屋の読み書き以上に学問を修めようとすれば衣食住タダのお寺に入るという道があった。
といってもひたすら僧侶になる修行に精進したのではなかったようだ。東京に行ったりあちこち出歩いたようなんですな。
ひいおじいさんの子供の頃、まだ学校はなくて地方の庶民は寺子屋で読み書きを習えば上等のほう。ちなみにひいおばあさんは大きな農家の出で、裁縫の腕が立った。明治時代になってから地元の小学校で裁縫を教えたこともあった。だが読み書きはできなかったとはじめて父から聞き驚いた。
そういえば寺子屋に行く女子は少なかったようだ。兄弟が寺子屋で習ってくる文字を、囲炉裏や火鉢の灰に火箸で書いて覚えたという富山県のおばあさんの話を聞いたことがある。


どのくらいしてか、家を再興すべく僧侶をやめて家に戻ったひいおじいさんは村の名士と親交し、明治政府に頼まれて検地地図を作った。
それまで年貢で米を納めていたのを明治政府は地租改正を行い、税金をまんべんなく吸い上げる仕組みを作った。ひいおじいさんの名前が入った検地地図が実家に残っている。我が家はその後、祖母が公務員の婿を迎え、農業を生業とすることはなくなった。


窮屈な家業の我が家に三味線を弾く風流な先祖がいたことは、私にとって一縷の救いであり希望だった。それは妹や、弟の嫁さんたちも同様で、どんな人だったんだろうと話していた。
私は「ひいおじいさんの生きた時代」という題で下書きを大晦日に書きあげ、今回田舎に持ち込んだ。父や弟(日本史・近現代専攻、地元の史料編纂にも携わる)にチェックしてもらい、姪や甥たちにこういう先祖がいたんだよと配るつもりなのだ。


というわけで今年の正月はひいおじいさんの人物像をめぐり話題が盛り上がった。父、私が祖母から聞いた話と、弟が学術的に調べてわかったことをつなぎ合わせて見えてきたひいおじいさんの実像は、少なからず私の意気を消沈させた。
(続く)