みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

記憶を共有するには

 今日は4月25日のブログに書いた大正5年生まれ、94歳の婆様を訪問した。月1回の定期訪問で、使っている介護保険サービスの評価をモニタリングする(厚労省の命令)のが主目的である。
 だが婆様は、生まれ育った旅順の思い出を何度でも繰り返す。娘さんが愛媛新聞の記事の切抜きを見せてくれた。それには何と、やはりというべきか。 婆様の父は加藤陽子著『それでも日本人は「戦争」を選んだ』で知った水野廣徳と親交があったことが書かれてあった。1月24日のブログ参照 
 水野は軍人でありながら、「日本には資源はないのだから持久戦はできない。国家の重要物資の八割を外国に依存している国なのだから、生命は通商関係の維持にある。通商の維持などは、日本が非理不法を行わなければ守られるのである」。1929年当時、「日本は戦争をやる資格のない国」こういうこというを軍人が日本に現実にいたのだ ! 

 婆様の夫がまたすごい人だった。旅順の高等学校で中国人に英語を教えていた時、中国人の生徒を差別したり、中国人を弾圧する日本人に反逆する生徒を当局からかばい、危険を顧みずに出国届けや転校届けを手配し、逮捕から免れさせた。婆様と家族は敗戦後、日本に引き揚げる時に、助けた中国人の生徒から大量の炒った落花生と温かい衣類を与えられ、無事に日本に帰ることができた。

 軍国主義の時代、中国人や朝鮮人を下に見る日本人が大勢の中、日本に抵抗する中国人の教え子を守るということは、かなり危険なことだったのではないですか。私は娘さんに尋ねた。「父は平然として気にしない人でしたよ」。うーん、同じ中国に渡っても、いろいろな日本人がいたのだな。

 私は娘さんに、地方の新聞に掲載されただけではもったいない。もっと多くの人に知ってもらいたいと申し上げた。娘さんもそういう気持ちはあるようだ。テレビでちらりと見た「記憶の銀行」がいいのか。NHKの戦争の証言プロジェクトがいいのか。朝日新聞でも募集していたな。私は、婆様たちが住んでいた旅順、大連の街の再現、歴史的背景、それと「坂の上の雲」とリンクする部分をからめてドラマかドキュメントとして観てみたい。


ヨザクラさんお勧めの「幻の大連」は読みましたよ。この本よりも婆様とその家族の物語の方がわくわくしてもっとおもしろいです。