みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

「お日さま」 をみはじめた

 五月の連休に田舎に行った時、母が「これを見るのが楽しみなんだ」とNHK朝の連続ドラマ「お日さま」をみていた。母も主人公と同じく、女学校から女子師範学校へと進学し、小学校の教師になった。5月3日の回は、昭和十四年の女学校とそこに通う主人公と友達の固い友情がほほえましい。母も女学校の友達グループとつきあいが今も続いている。食べるものがなく、いつもお腹をすかせていた戦争の時代を共有したせいか、今でも仲が良く結束している。

 NHKの朝ドラって、明るく元気な娘が苦難に耐え、激動の時代を健気に生き抜くというストーリーが多い。忙しい時間帯なので、私はふだん朝ドラはみない。彼女らの正月の晴れ着姿を目にして、「あら、この頃こんなに華やかな着物着てたの」と意外だった。
 昭和十二年に日中戦争が始まり、時代は戦争へと歯車が大きく回り始めたはずだが、昭和十四年、庶民の生活はまだ戦争一色でもなかったのね。というふうに発見があるので、「お日さま」みはじめた。主人公陽子は二年制の師範学校を卒業し、昭和十六年念願の小学校教師になる。ところが小学校は国民学校と呼び名が変わり、軍国主義教育が行われていた。とまどう陽子。

国民学校の目的            
国民学校の目的は、国民学校令第一条の「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」という四○字に要約されている。「皇国ノ道」とは、教育勅語に示された「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」をさし、「端的にいえば皇運扶翼の道」と解したのである。すなわち国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」させることを目ざしたのである。なお、「初等普通教育」とは国民学校の内容を示し、「基礎的錬成」とは、教育の方法を示したものであるとした。       文部科学省


 私のおじいさんは国民学校の校長だった。児童を思い、教員に尊敬される古武士のような校長だったそうだ。国策にそって戦争遂行に率先して協力したため、終戦後に責任を取り退職した。祖父が75歳で亡くなった時、地元の教育同人誌に追悼特集が組まれた。

 おじいさんは児童にとってはどんな校長だったのか。当時、国民学校児童だった85歳の親戚のおじさんに聞いた。おじさんは、「その頃は奉安殿があったんだよ」。といった。儀式があると奉安殿から講堂まで、白い手袋をはめた校長と教頭が、天皇皇后の御真影(写真)と教育勅語を頭上に掲げ、しずしずと運ぶ姿が印象に残っているという。「奉安殿から講堂までの距離が長かったんだ」。別の元児童に聞いても、「よく腕が痛くならないなと思った」という感想を聞いた。

 奉安殿は天皇皇后の御真影(写真)を保管する学校敷地内の建物のこと。天皇の写真を空襲等で焼失させると、校長は責任を取らなければならない。実際、そのために自害した校長もいたらしい。だから、校舎は木造でも奉安殿はコンクリート製だった。空襲警報が発令されると鉄カブトを被った教頭が奉安殿の前に真っ先に駆け付けた。
 国民学校では、教育勅語にご真影、日の丸、君が代がセットになり、国(天皇)のために命を捧げるという皇国民錬成の教育が行われたのだ。

 さて「お日さま」では奉安殿に児童が拝礼するシーンはあったが、その辺のところはさらりと流している。これからどういう展開になるのか。まだ、女性はモンペ姿になっていない。

 その奉安殿は戦争に負けたため、廃止になった。村役場の呼びかけで、昭21年に村役場と学校の代表の手で壊された。
昭和天皇は自ら現人神ではないと人間宣言をした。「君が代」も新しい時代の国家にふさわしくないとして、当時は左右両陣営関係なく新しい国歌を作ろうという提案がなされたようだ。
 この段階で君が代ではない国歌が制定されればよかったのだが。それがいつのまにかうやむやになり、君が代斉唱と起立が強制されるようになってしまった。子供たちは君が代の意味と、君が代がどのように使われたか、歴史的経緯を知らずに歌わされている。

 最近の記事によると、大阪府橋下知事が学校現場での君が代斉唱の際の起立問題に神経を尖らせている。橋下知事は若く有能で、脱原発自然エネルギーへの転換にも意欲的だ。それなのになぜ起立条例まで制定して強制しようとするのか。

 教職員組合員でなくても、なぜそこまでやるの?と思う人は少なくないはずだ。平成天皇が「強制はいけません」といわれたその言葉の向こうに思いを馳せられないのかな。
橋下知事や、君が代を強制しようとする人たちは、多忙でいらっしゃるのでしょう。平成天皇が戦後60年の節目の誕生日、2005年12月23日に何を語ったか、お読みいただきたい。

東京新聞 (ホームページ)
サイパン『心の重い旅』 天皇陛下72歳に
 天皇陛下は二十三日、七十二歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見し、六月に米自治サイパン島を慰霊訪問したことについて「(サイパンでの)六十一年前の厳しい戦争のことを思い、心の重い旅でした」と振り返った。
 会見で陛下は、日本人戦没者三百十万人のうち、海外戦没者が二百四十万人に上ったことを指摘。「戦後六十年にあたって、私どもはこのように大勢の人が亡くなった外地での慰霊を考えた」とサイパン慰霊の動機を語った。 (以下 略)
朝日新聞 の見出し   サイパン心の重い旅でした
毎日新聞        戦後60年 「過去への理解、大切」
読売新聞        読売新聞のみ全文を掲載した。
 戦争の記憶や歴史認識について 「日本は昭和の初めから終戦までほとんど平和なときがありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは、日本人自身にとって、また、日本人が世界の人と交わっていくうえにも極めて大切なことと思います。
 戦後60年になって過去の様々な事実が取り上げられ、人びとに知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により、過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」。
  私は最後の、多くの人々の努力によって過去の様々な事実が取り上げられ、知られるようになった、という部分に目が止まった。現天皇、皇后が勉強家で聡明なことは、進講した学者から直接聞いたことがある。
 戦争についても事実を様々な本から学んで、サイパンへの慰霊を決断するにいたったことがうかがえる。と同時に、そういう書き手の地道な調査、聞き書きに対して、天皇が多くの人々の努力によって、と言及していることに感動した。

 昭和の無謀な戦争に至る経緯、負けるとわかっていながらだれも戦争を止められず、現場を知らない参謀本部がずるずると犠牲を増やし、最後には原爆を落とされるまで終戦を決断できなかったこと。これは3月11日の大地震による原発事故に至るまでの原子力導入の歴史に重なる。過去の歴史に真摯に向き合わないことが、同じ過ちを繰り返した。日本は一つ、強いニッポンという概念ではなく、異論や少数派の意見に耳を傾け、議論できる日本に変わってほしい。おまかせ民主主義ではなく、私もできることをしなくちゃね。