みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 はなみずきは東北に似合わない

 今朝のTVニュースで、アメリカから東北にはなみずきの木を贈るという。一瞬「困ったな」と、東北の人間でもないのに居ても立ってもいられなくなった。十数年前、東京の自治体では街路樹にはなみずきを植えるのが流行り、どこに行っても同じ街路樹の町並みになり、味気なくなった。
 私は市役所に文句を言いに行ったが、「それはあなたの考えでしょう。きれいだという人もいる」と相手にしてもらえなかった。農大の先生が数日後に朝日新聞に専門的立場から、同じことを書いてくださったので、市役所の担当者の恩師だったせいもあり、考えを改めたようではあったが。
 はなみずきはきれいな花だが、後でしまったと思っても簡単に伐採するわけにはいかない。アメリカが贈るというのをむげに断るわけにもいかないだろうが、どういう町並み、樹木がふさわしいのか、東北のみなさんよく考慮なさいますように。 


 寒波とみぞれ模様が続くという予報。図書館にあった山川菊栄著『おんな二代の記』『幕末の水戸藩』『武家の女性』を借りて、どこにも出かけず読んだ。
 私は山川菊栄という社会運動家の名前はぼんやり知っていても、彼女の祖父が水戸藩弘道館の教授であり儒者であったこと、祖父、母から聞いた水戸藩での暮らしや幕末の騒乱について本を出していることを知らなかった。幕末の水戸藩の状況について検索して著書に出会ったわけだが、もっと早く読めばよかった。のびやかな文章で当時の暮らしや世相が鮮やかに描きだされ、引き込まれた。

  山川菊栄は『幕末の水戸藩』のあとがきにこう記している。
「(略) あのテロ期の水戸は、ある人々のいうように、水戸人そのものの先天的な体質にあったのではなく、封建制度の生んだ矛盾と行きづまりの生んだ深刻な、絶望的な世相の一部であったことと思われます。世の中の移り変わりには、ともすればそういうヒステリックな傾向も現れるようですが、それを適当にコントロールするところに世の中の進歩があっていいはずです。(略)」

 しかし、山川菊栄の祖父「弘道館」教授の元で、勉学に励んだ若い少年や青年志士が数多くむだに命を捨てたのである。それにしてはさらりと総括している。水戸藩は貧乏藩なのに御三家としての見栄、尊王攘夷の総本山であるという意地にこだわるあまり、時代を見通すことができなかった。内部抗争はどこでもつきものだが、水戸藩徳川御三家で参勤交代の義務が免除され、江戸詰めの藩士と地元の藩士との間に溝ができていたことが、人間関係を修復できず報復の繰り返しで有能な人士を根絶やしにし、貴重な書物、文化遺産を消失させてしまった。昭和になっても茨城県人の関係するテロは続き、泥沼の十五年戦争に突入するきっかけの一つとなるなど、当時の世相の一つとして片づけてしまうには大きな問題をはらんでいるのではないか。