みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 明治の女たち

 一昨日は久しぶりに映画をみた。若松孝二監督の『海燕ホテル・ブルー』 あまり残虐なシーンは困るなと思ったが、なかなかおもしろかった。女性の観客の方が数が多かった。
 来週そうそう花見の予定があるので、いつもの三人組であるが、一応言いだしっぺとして下見に行く。トイレはOK、レストランがない。お弁当を買うことを考えて、弁当を売る店を数軒チェックする。かんじんの桜の開花チェックは最後になる。三分咲きなのでやはり来週が良さそう。

 水辺の草むらに野蒜(ノビル)が生えていた。放射線汚染がチラリと頭をよぎったが、袋にいっぱい採った。野蒜はこの後の下ごしらえが面倒で、毎度ながら採ったことを後悔する。何年か前、吹上御苑を散歩する天皇皇后の番組があったが、「あら、野蒜だわ」と腰をかがめる皇后に、天皇が採って、皇后の手の平に乗せて上げていた。「どうやって食べるのですか」と問うカメラマンだったかに、「酢味噌和えがいいかしら」と皇后が答えていた。たぶん、皇后は戦時中館林に学童として疎開していた時期に、野蒜を採取し、食べた記憶があるのではないだろうか。
 

 若桑みどり著『皇后の肖像』ー昭憲皇太后の表象と女性の国民化ーを読み終える。明治国家における女性像というのはどういうものであったか。
 「良妻賢母という理想の女性モデルをかかげ、これを教育やマスコミ、文学や視覚表象、シンボルを用いて女性たちの心性に刷り込んだのである」「このような女性の国民化の理想的モデル生きた模範として、うるわしく立ち現われてきたのが、昭憲皇太后、その時は美子(はるこ)皇后の凛々しい姿であった」。とまえがきにある。
 「男性」の書く、あるいは「男性」視点の歴史に接することが多いので、ジェンダー(辞書によると「歴史的・社会的に形づくられた男女の差異、に対する意識)の視点に、発見したり気づくことが多かった。でもそれが絶対とも思えないのは、自分が、曾祖母の代から男が弱く女が強い家で育ったからかもしれない。

 山川菊栄著『女二代』で見る二五歳の美子皇后は、生き生きとして旺盛な好奇心を持つ初々しい女性だった。五摂家一条家の三女で未来の皇后としての教養、学問を身に着けて、当然のごとく明治天皇と結婚した。美しく知的な皇后は、外国の外交官から政治家、女官に至るまで評判が良く、明治天皇を公私ともに支えた、というより皇后なくして明治国家の建設の成功はありえなかったかもしれない。
 
 ところで美子皇后=昭憲皇太后は幸せだったのだろうか。皇后への賛辞を惜しまない外国人は多かったが、明治末期に華族女学校の英語教師をしていたアリス・ベーコンは華族女学校に行啓した時の皇后の印象を、「彼女の顔は、私にはとても悲しそうで、何かに耐え忍んでいるように見えました」と書いているそうだ。晩年の明治天皇はお酒に溺れ、腎性糖尿病を患っており、「お酒さえ召し上がらなければ・・・」と美子皇太后を歎かせた。
 明治天皇の側室は全部で六人いた。五人の側室から一五人の子が生まれ、その中の八人が脳疾患で死亡したこと、なかに即日死が二人いたことがリストアップされている。『明治天皇紀』にはこれらの皇子、皇女の誕生や死が忠実に記録されているそうだ。いったい何があったのか。江戸時代の大奥もそうだが、悲しく恐ろしい世界でもあったのだ。

 若桑みどりは「あとがき」に、明治の女性を抑圧していた男性中心の政治文化について研究しているとき、私は明治に生まれなくてよかったとなんべんも思ったと書く。たしかに明治の女性は今より困難が多かったが、でもそれが不幸とばかりは言えない。庶民であったわが先祖の場合、明治という時代はある意味では今よりも自由になんでもできた面があった。曾祖母や祖母の凛々しい生き方に、とてもかなわない。