みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 愛国とはなんぞや 南京虐殺証言

 糠漬け用の野菜がなくなったので、農協(JA)で野菜をしこたま仕入れてきた。カブ、セロリ、大根などベランダで干してから漬けるので、味が凝縮されてうまい。先日西表島からきた妹は、糠漬けを喜んで食べていた。パンでも何でも上手に作る妹なのに、糠漬けはやりたいけど無理だという。沖縄という気候のせいか、糠漬け用の野菜が手に入りにくいのか。

 『妻たちの太平洋戦争』佐藤和正著 昭和58年発行を読む。というのは私の知っている牛島さんが、この中にある牛島満陸軍大将の身内であることを最近知ったからである。当人はそんなことはおくびにも出さなかった。
 この『妻たちの太平洋戦争』には17人の未亡人が登場する。牛島満大将については「春風のような人柄に君子夫人は面くらった」とご夫婦の写真姿が載っている。沖縄防衛軍司令官である牛島大将は部下思いであると同時に家庭では子煩悩の人であったという。
 しかしながら、沖縄は本土に米軍が上陸するのを遅らせるための捨て石、と決まった以上司令官はその命令に従わざるを得ない。日本軍は住民を守るために沖縄に駐留したのではない。沖縄は住民を巻き込んで地上戦となり多くの犠牲者を出し、牛島司令官らの自決によって沖縄戦は終わる。インターネットで牛島満大将の娘さんが「平和がいちばんです」と答えている映像を見つけた。また孫の一人が東京の高校の先生で、平和教育を沖縄で行っているという記事もあったが、会ってみたい。
 
 開戦時の首相東条英機が開戦のとき、夜中に何度もうなされて起き上がったという妻の証言は凄味がある。開戦前のシュミレーションで、日本は米英を相手に戦えば資源が持たずに敗戦は必至という調査結果が出ていた。陸海軍の上層部は内心勝てるとは思っていなかったので、開戦を決断できないまま、ずるずると戦争に突入した。
 もちろん国民はそんなことを知らなかったが、現在生きる私はその事実を知っているから、東条首相の苦悩の深さに慄然とせざるをえない。指導者級の表と裏の顔の落差が妻たちへのインタビューで明らかになり、興味深い。
 この『妻たちの太平洋戦争』の作者は男性で、軍人に対して憧憬と尊敬を抱いて育った時代の人のようだ。指揮をとる軍人の中には無能で、非人間的な人物もいたが、この本では人間的に立派で、家庭においては子煩悩、部下に慕われる人物を取り上げている。妻たちは軍人の妻として、立場上夫が戦死しても刑死しても恨みごとをいわず、悲しみを顔に表すこともしなかった。というところが泣ける。

 支那派遣軍司令官陸軍岡村寧次大将のチヱ未亡人の証言は興味深い。(以下引用160ページ〜)
…筆者がたずねた時、夫人は開口一番ドギモを抜くような話をした。「うちの主人はね、日本軍に慰安婦を連れてゆくことを、最初に考えだした人なんですよ」
七十一歳(昭和四十六年)の婦人は、ホッとはにかむような表情をほおに浮かべながらいった。「昭和七年だったと思いますけど、上海事変のとき、主人の部隊の兵が、現地の女性を強姦した事件があったんです。派遣参謀副長だった主人は、その後、何回か起きた強姦罪に頭を痛めましてね、とうとう長崎県知事に頼んで、慰安婦団を送ってもらったんですって。それからというもの、まったく強姦罪がなくなったということですのよ」
 岡村が、陸軍最初の慰安婦設置の創始者であったとは初耳である。だがこの効果は大きかった。それ以来、各兵団は、ほとんどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊とまでなるありさまだった…。(引用ここまで)
 しかし、取締りは厳しくしても、その後も強姦事件は多発した。昭和十三年に兵士四名が村長の妻と娘を輪姦したため、村民が怒って非協力体制をとっていることがわかった。人道に反することを嫌う岡村は、内地に帰還した昭和十五年の春、陸軍大臣だった阿南惟幾に、陸軍刑法の強姦罪が普通刑法と同じ報告罪である点を改正すべだと進言した。岡村の提案は二年後の昭和十七年に「戦地強姦罪」として制定されたとある。

 私は数年前、中国戦線に従軍した「元兵士の証言を聞く会」で、農村などから赤紙で収集された兵士が、どのように人を殺し、強姦するようになっていくのかを直接聞いたことがある。殺さなければ殺される。人を殺すことに震えていた兵士が、そのうち母親から幼児を引き離して泣く子を井戸に投げ込み、強姦することが平気になる。兵士になるとは、戦場とはそういうものだということを理解した。

 また三笠宮崇仁著『古代オリエント史と私』昭和59年6月9日発行 には、なぜ戦後オリエント史を学ぶことにしたのかという心境が書かれてある。
三笠宮が1943年1月に、支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任し、1年間在勤した時に日本軍の残虐行為を知らされた。(以下16ページより)
「…ある青年将校―私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのですー から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるに限る、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。…」 そしてこれらは氷山の一角に過ぎないものとお考えください。と書いてある。(二)「戦時中の苦悩」の中では、日本軍の戦利品の中にあった重慶政府(主席は蒋介石)が制作した日本軍の残虐行為をテーマにした映画を、シナリオは事実をもとにして書かれたとしか思えなかった。そこで三笠宮は「東京に出張を命ぜられた時、この映画を携行し、大元帥陛下にお見せしました」。(19ページより)
 三笠宮が上海地区の視察に行った時のこと、ある師団長は次のように述懐したという。「われわれが戦っている敵方の中国軍と、日本軍に協力している味方の中国軍とを比較すると、相手方のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦いをしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっている方の軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます」と。
 (四「)旧約聖書との出会い」のところには、日本軍は山西省の山中で八路軍(注、中共軍)と対峙していたが、彼らの対民衆、ことに婦人に対する軍紀は驚くほど厳粛であった。当時日本軍人で婦女子に暴行する者がいることに頭を悩ませていた某参謀は「八路軍の兵士は、男性としての機能が日本人とすこし違うのではなかろうか」と真面目に話していた。(34ページ)
 日露戦争に参加したある老将軍は、当時は小隊長でさえも国際法を携行していたと語っていた。「それからわずか2、30年しかたたないうちに、暴虐の日本軍と化したのはどういうわけだったのでしょうか」。
 敗戦後、三笠宮は戦場での見聞、体験を経て、日本軍のおこなう戦争は正義のいくさであると部下に教えていたことへの良心の呵責から、歴史の勉強、とりわけ古代オリエント史の研究に関心を持ち、ライフワークとするようになった。と書いている。

 これらの証言だけを見ても、南京だけではなく中国で、日本軍の婦女暴行や残虐行為がひどかったのは事実なのだ。日本軍自体は記録を残さず焼却し、証拠隠滅した。軍の記録がないから、虐殺はなかったということはありえないのである。私の地元茨城県の水戸連隊は中国戦線に派遣されている。近所の知っている男たちが、そんなことをしたとは考えたくはないが、侵略され被害に遭った国の人たちは忘れないだろう。過去の歴史とはいえ、中国など侵略された国の今に生きる子孫が記憶し、怒るのは当然だ。私たち日本人も原爆投下や空襲の被害について知り、怒らなくてはまた同じことが繰り返される。
 しかしながら、南京虐殺はなかったなどと言い、反省するどころか被害にあった国を侮辱し、被害者の話を聞こうともしない政治家が多い。しかもそういう人たちが総選挙で勝って総理や重要なポストを占めるのであれば、日本の国益は損なわれるばかりか、日本の未来はない。愛国とは何ぞや、である。
 三笠宮明仁天皇美智子皇后が過去の歴史に真摯に向き合い、謝罪と友好を是とし、国民にも歴史の事実から学ぶべしと語るその心を知るや。
 ともかく来月師走、総選挙が行われる。