みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 教育委員会制度の改革って?

 
 政府の「教育再生実行会議」(座長・鎌田薫早稲田大総長)は首長に教育長の任免権を持たせ、教育長の権限を強化して地方の「教育行政の責任者」などとする教育委員会改革の提言をまとめたそうだ。
 安倍首相は鎌田座長から提言を受け「地方教育行政の基本構造を大きく転換するものであり、教育再生の基盤が築かれるものと確信している」と述べ、来年の通常国会で関連法の改正を目指すとのこと。与党に返り咲いたこの時に、とばかり次々にいろんな改革(?)を打ち出すが、そのような教育委員会制度で「再生される教育」とはどんなものなんだろう。

 そもそも教育委員会制度の始まりは、1946(昭和21)年米国教育使節団が来日し、教育改革への提案をし、協議を重ね報告書を提出した。「教師がもっとも能力を発揮できるのは自由の雰囲気においてである」とし、行政の役割はその雰囲気づくりにあり、逆であってはならないと釘をさしていた。
 教育への政治支配を排し、地域・学校から教育を改革していこうとする時、教育行政は一般行政から独立させ、住民参加による地方分権の原則ですすめていく必要がある。として、県と市町村に公選制の教育委員会を設置するための協議が行われ「公選制教育委員会」が成立した。この法律にもとづいて教育委員を住民が直接選挙で選出する、日本ではじめての公選の教育委員選挙が行われたのである。

 私の祖父は国民学校の校長として国策である戦争に率先して協力したため、敗戦後「民主教育を担当する自信がないし、担当者として適任ではない」として退職した。祖母には学校をやめて、百姓するといったそうだ。祖父が残した備忘録によると、昭和27年9月、祖父は部落とPTAの推薦により村教育委員選挙に立候補を届け出た。定員4名のところ6人が立つ。村内各所にビラを貼り、メガホン部隊で回り、街頭演説を行う。10月5日投票、即日開票の結果、祖父はトップ当選し教育委員長となる。任期は4年間、市町村合併令により、昭和29年自動的に町の教育委員になる。
 父の話では、本人は教育委員という民主的な制度に自信がなく消極的だったという。しかし毎回の教育委員会で「老朽危険校舎の改築」を提案し改築を実現させたことを、祖父が死んだ年、当時の小学校校長の追悼文によって知る。しかしながら、日本で初めての教育委員公選制は一回だけで廃止になった。
 昭和30年保守合同により誕生した自由民主党は党是として「教育に関する国の責任と監督の強化」を掲げ、公選の教育委員会制度に反対した。政府は教育委員会制度を任命制に切り替えた。以後、学校と教員の管理は強化されて今日に至る。安倍首相は教育をどうしようというのか。