みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 父の最期

 父の葬儀がすんだ。

 4月中旬まではかろうじて口から食物を取り、自分で入浴していた父は、22日からは食事も水分も受け付けなくなった。ゴールディンウイーク直前に実家に行く。
 窓越しに欅と山桜の若葉が広がる寝室で、父は介護用ベッドに横たわっていた。水分維持だけのための点滴が一日置き。栄養のある物は入れていないので一回り痩せてしまった。
 「訪問看護師に身体の具合を聞かれても「大丈夫です」という会話くらいしかしないので、お姉さんと話ができるかどうかわからない」実家のヨメさんからそう聞いていたが、リンパ節に転移した食道ガンの早い進行に驚かざるをえない。
 口の中が熱っぽいのか、違和感があるのか、ひっきりなしに氷水と氷を口に含んで、枕元の器に吐き出す。夜中母と交代し、3個のストロー付吸い呑みに氷水を補充し、受け盆に口から出した水をバケツに捨てる。点滴の水分以外は取っていないので、一日一回おしっこが出る位、介護につきもののオムツ交換の手間はない。

 5月3日の朝7時、父はいつものようにNHKテレビニュースをつけた。女性のアナウンサーが「憲法改正についての世論調査で、改正したほうがよいと反対がはじめて半々になりました」と告げると、父がリモコンでテレビ画面を消した。
「父ちゃんは憲法改正は反対なの、賛成なの」と聞くと、「憲法改正してもいいが、どういう国にするのか、その結果が見えない」という。
憲法改正したい今の政権の人たちは戦争を体験していない人たちだから、心配だ」と私がいうと「その意見に賛成だ」父とは政治的な話はしないし、意見が一致するとは思わなかったので意外だった。

 昼ごろ、父は「刺身が食べたい」といった。ヨメさんが父の好きな鰹と本マグロの刺身を買ってきた。盛りつけられた刺身を父の枕もとに並べると、父は目を輝かせ実にうれしそうな顔をした。「たっぷり醤油をつけてやって」母がいう。目の前で刺身を刻み、箸で父の口に入れる。父は刺身をじっくり噛みしめ、口から出す。お茶も舌で転がし「もういい」手を横に振り「後はお前たちが食べるところを見たい」といった。
 泣きそうになるのをこらえ、「こんなおいしい刺身を食べたことがない」といったら、父は満足そうな顔で目をつぶった。穏やかな寝顔。

 93歳の父は延命治療を断り、自然に死ぬことを選択した。余命は時間の問題だったが、父の意識と精神状態は死を前に透明さを増しているように感じられた。「祖父の最後のように意識が混濁し、自分が一番輝いていた時に戻って眠ったまま死ぬのがいいね」父と話し、本人も「あやかりたいもんだ」といっていた。意識も思考も鮮明なまま死と向き合うことは、私には想像できない。

 いつも質問する側の私に、父から子ども時代の思い出や筑波山などの家族旅行について聞かれ、面くらった。私は国会図書館から資料を取り寄せ、學徒勤労動員のところを読んでいるところだ。父の旧制中学時代の軍事教練のことを聞いた。
「配属将校が校長よりも威張っていたんだって?」「まだ下級生の頃だったな、整列して中佐の話を聞いていた時、お昼の時間になるのに、中佐が興に乗って話が終わりそうもない。腕時計を見たのを見つかりビンタを一発もらった」「腕時計見たくらいで?」「俺の同期は兵隊に行き、ビンタの一発ではすまなかったんだ」。はじめて聞く話だった。

 父の仲よかった友達や同期がニューギニヤや南方で戦死している。父は昭和16年に20歳で召集され、水戸連隊に入隊した日に肺結核が見つかり、即日帰郷となった。末期ガンが見つかった時の父の嬉しそうな晴々とした声、93歳まで充分生きたんだから延命治療はしないで自然死したいという意志は、兵隊として戦地に行かなかったという負い目も影響しているのかと思えるのだが、父に直接聞くことはできなかった。

 父にいきなり「俺が生きた証の品をあげたいが、何か欲しい物あるか」といわれた。
 「父ちゃんに、先祖から始まっていろいろ話を聞かせてもらったので、それで充分だよ。聞いたことをまとめて本にするから」「記録として残してくれ。うまく書かなくていいから、正直に書け」。これは父の遺言として受け止めた。こんなに意識が鮮明で、父と深い話ができるようになったのに、死んでしまうなんて。もっと父から戦時中の話や、聞きたいことがあるのに。
 夕方私が東京に戻る時間になった頃、父の声は弱々しく「状態が悪いから長いことないだろう。大往生だよ。」私は頷いた。残る力を振りしぼって話してくれていたのだろう。
  父は3日後、家族に見守られ、眠ったまま自宅で息を引き取った。癌が見つかって4ヵ月、身を持って子や孫たちに「死の教育」をしてくれた。見事な最期だった。