みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

 パソコン故障

 愚ブログ、10月は一度も更新していないではないか。10数年続けていてこんなに間が空いたのははじめて。
 書きたいことはあったが、先月下旬にパソコンが壊れてしまった。ワードを使っているときに突然画面がまっ黒になった。英語の文字がえんえんと流れ、エラー云々という単語があるので故障したことは確実。
 メーカー(NEC)に電話したら、ハードディスクの故障の可能性が高い。マザーを交換すると5万5千円、現状と同程度のレベルのに買い替えるとなると17万円といわれる。今のパソコンはまだ購入して3年10ヶ月しかたっていない。ウインドウズ7だが今も新品と変わらない姿である。これまで特に問題もなかったので修理を選んだ。3連休を挟んで7日目に手元に戻ってきた時は、戦友が還ってきたようなうれしさがこみあげた。
 
 さて、到着してからが大変。ブロバイダーやセキリュティの手続きやり直しなどに数日間を費やすはめになる。遠隔サポートしてもらいバックアップを完璧にしたつもりだったが、デスクトップに置いていたファイルを忘れていた。
 友人に愚痴をこぼして数日後、彼女からパソコンが壊れたと電話が入った。「五万円も修理代取られるなら、もうパソコンをやめようと思ってる」と腹に据えかねる口ぶり。メーカー(東芝)はウィルスのせいだといっているそうだ。だったら修理代がそんなに掛らないかもしれないから、修理に出してみたらとすすめた。再び電話あり、1万いくらかで直るというので、パソコンライフを継続することにしたという。
 「パソコンって、ほんとに時間喰い金喰いだね」とオバサンユーザー同士ぼやく。憤り嘆きながらもパソコンライフを捨てられない。

 パソコンを使えない間、証言記録『玉砕の島ペリリュー戦記』 平塚柾緒著を読む。コップの中の戦いというべき、狭いペリリュー島での日本軍と米軍の死闘。日米双方に精神的に異常をきたす兵士が出る過酷な戦いは圧倒的な物量の米軍が火炎放射器で洞窟内を掃討し決着がつく。
 中川大佐が自決したことも、敗戦も知らずに洞窟で生き延び、日本軍の援軍が来るのを信じて待ち続けた34人。敗戦となり部隊が体をなさず、ちりぢりになってからの兵士たちの潜伏生活がおもしろい。食料も衣服もないから夜陰に紛れ、米軍のキャンプに忍び込み衣食、タバコ、銃まで盗んでくる。夜の米軍の上映会に紛れ込み一緒に映画を見る。米軍の兵士の制服を着ているから、暗闇ではわからない。
 当然ながら、米軍の方もやがて敗残兵の存在を知るようになる。米軍では日本軍降伏の後、2年間洞窟にこもっていた敗残兵を掃討するに忍びず、期限付きで猶予を与え救出しようとする。洞窟に立てこもる敗残兵34人に、上官などありとあらゆる方法を使って投降を呼びかける。しかし軍人勅諭を頭に叩き込まれ、生きて捕虜になることを禁じられていた兵士たちは呼びかけに応じない。敗戦をうすうす知りながらも、投降しようとすれば仲間から後ろから撃たれる恐れがあったのだ。投降期限のタイムリミットが迫る中、最終的に彼らに投降を決意させたのは、急きょ取り寄せた家族や友人たちの手紙だった。
 鬼畜と思い込まされていた米軍に捕虜として保護されて、軍医に歯の治療をしてもらう。牛缶などの食料や衣服をもらい、本土に帰還して日本と日本人の姿にショックを受ける。戦争を美化し、美化した戦記しか見ようとしない人たちに読んでほしい本である。著者である平塚柾緒という人は何と茨城県出身であった。
 34人の敗残兵が洞窟から出て、米軍のキャンプに到着した時、米軍の兵士たちが駆け寄り握手を求めたという。この場面には「男の美学」という言葉がキライな私でも胸にぐっと迫るものがある。
 
 さて来年、戦後70年の節目に天皇皇后がニューギニアパラオ方面に慰霊に訪れるという。そしてペリリュー島にも渡りたいという希望を示されているそうだ。おそらく現天皇皇后にとって国外最後の戦地慰霊になるのかもしれない。
 天皇戦後60年サイパン慰霊を終えた年、誕生日会見で記者団の質問に回答を寄せている。

(宮内庁ホームページより引用) …日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって,また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。
 戦後60年に当たって過去の様々な事実が取り上げられ,人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され,将来にいかされることを願っています。

 私は現天皇のこの言葉を読み、その真摯さに衝撃に近い感動を受けたものだ。天皇皇后が読書家であることは何となく見聞きしていたが、これほど深く勉強しているとは知らなかった。そして天皇皇后が言葉だけではなく身を持って慰霊とは何かを国民に示されていることに気づいた。