みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

こまえ平和フェスタ2019 

 8月18日(日曜)午後2時から狛江駅前のエコルマホールで、沖縄の歌や踊り、戦争を語り継ぐ催しが開かれる。

 その中に「沖縄に心をよせて」というテーマで、牛島貞満さんの講演があるのを見つけた。牛島貞満さんは沖縄守備戦で自決した牛島満司令官のお孫さん。学校教員だった頃から、沖縄戦を指揮した祖父牛島中将の足跡をたどり、沖縄に出かけ平和のための授業を続けてきたという方である。

 さて私が生まれる前、郷里茨城県の旧飯沼村に昭和20年頃、牛島さんという一家が疎開してきた。17歳の代用教員だったミヨ子さんは、勤務先の飯沼国民学校に牛島くんという疎開してきた男子がいたのを覚えている。また、旧制下妻中学一年生の秋葉芳夫さんは同級生の牛島くんと旧制下妻中学に自転車で通学していた。

 ミヨ子さんも芳夫さんも、昭和20年6月23日牛島満司令官が自決したことは新聞などで知っていたはずだが、二人とも牛島くんたちがその息子であるとはつゆにも思わなかった。たぶん飯沼国民学校長だった祖父も、村人も知らなかったのではないだろうか。牛島さん一家が飯沼村を離れてからも牛島くんと交流があった芳夫さんは、だいぶたってから彼が故牛島中将のお子さんであることを知ったという。

 私の方は、祖父が敗戦を契機に国民学校長を自ら辞めたことが理解できなかった。祖父母はどういう教育を受け、時代をどのように生きてきたのか。祖父の残した備忘録や史料、周囲の人々からの証言や聞き取りの中から見えてきたのは、学校教育と戦争の密接な関係だった。『なぜ祖父は学校長を辞めたのか』という本にまとめ、今年の6月28日に出版した。祖父と戦争との関わりについて調べてきた中で、沖縄戦は沖縄だけにとどまらず、本土決戦という前提のもとで、次は九州、茨城県鹿島灘、千葉県九十九里浜が米軍侵攻の上陸先と見なされ、訓練が計画されていたことがわかった。

 また昭和20年7月8日文部大臣談で、沖縄戦での女子学徒隊を「傷病兵の看護その他の用務に服し、その敢闘ぶりは軍でも十分認められた」と賞賛、本土決戦の時は、男子学生とともに「義勇戦闘隊員として最前線に立つべし」とあおっている。

 私は牛島貞満さんより7歳年長だが、祖父と戦争の関わりにこだわり続けたという共通点、牛島さんと旧飯沼村、沖縄が見えない糸でつながっていたことに、不思議な縁を感じている。講演の後ちょっとでもいいからお目にかかれたらうれしい・・・。