みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

敗戦74年目の親子地蔵

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親子地蔵


 

小貫悦子さんより、お連れ合いが拙著『なぜ祖父は学校長を辞めたのか』を、近現代史として興味を持って読まれたそうで、会って話を聞きたいとのこと。私が書きたかったのは普通の家族がどういう教育を受け、時代をどう生きてきたのかなので、「我が意を得たり」とばかり、お盆の14日に茨城家下妻市の小貫さん宅まで出かけた。

お連れ合いに史料はどういうのを読んだのかと聞かれ、校正チェックミスで参考文献リストが抜け落ちてしまったことが今更ながら悔やまれた。とりあえずプリントしたのをお送りした。

婿養子であるお連れ合いは舅の小貫芳郎氏を尊敬し、その足跡をたどりたいという意欲をお持ちのよう。私も小貫芳郎氏が「さいで」22号に書かれた追悼文を読んで、芳郎氏の知性がどう育まれたのか知りたいと思っていたので楽しみである。お連れ合いは家事全般を受け持たれており、おいしい手料理をごちそうになった後、鴻野山まで車で送ってくださることになる。

 

実家と親子地蔵はすぐそば、親子地蔵にお参りするために、きれいな紅色のお線香を用意してくださった。水生寺の境内に車を止め、3人で親子地蔵にお参りをする。花立てに瑞々しい夏の草花が備えられているのがお盆らしい。向かいの秋葉さんが世話をしてくださっているのだろう。

前に線香をあげられた跡がある。裏側にまわると剥がれたはずの碑文「・・・一家七人諸共潔く国に殉ぜられた・・・」が、応急的に貼り付けられていた。どなたかが剥がれたのを保管してくださっていたに違いない。

親子地蔵の前でお連れ合いに「元乙女で写真撮りませんか」といわれ、悦子さんと親子地蔵の前に立つ。私も悦子さんも敗戦の翌年生まれで、巡査一家の悲劇は直接知らない。

親子地蔵に祀られている長女の玲子さんは下妻女学校三年生。長男の博さん旧制下妻中学一年生、次男・昇くんは飯沼国民学校五年生、三男・省三くん()二年生、四男・修くんは一歳だった。巡査一家7人は昭和20(1945)817日から齢をとらないままだ。

毎年命日前後に親子地蔵に家族とお参りするという遺児の A子さんは、玲和という時代を迎えた今、何を思われていることだろう。生き残ったA子さんにとっての戦後74年はどんなものだったか。

 

悦子さんはその後飯沼小学校の校長だった芳郎氏の転勤に伴い、小学四年生で転校され、その後お会いすることもなかった。前著を謹呈したことから、悦子さんと60年ぶりにお会いした。それから数年経ち、悦子さんや鹿野記者ら皆さんの勧めもあり、地名、登場人物名を実名に直した改訂版『なぜ祖父は学校長を辞めたのか』を628日に上肢した。

昭和20年当時の飯沼国民学校の校長と教頭の孫娘が、一緒に親子地蔵にお参りすることになろうとは、見えない糸のつながりを思わずにはいられない。この後、悦子さん夫妻は旧飯沼小学校庭の大ケヤキと住まわれていた校長住宅の跡を見て帰られるとのこと。