みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

歴史探偵 半藤一利氏の訃報

半藤一利さん 12日にお亡くなりになる。 

最近紙面で目にすることがなくなり、ご高齢だし・・・とうっすら覚悟はしていた。安らかな最期であったそうでよかったが、ショックと悲しみが襲った。もっと長生きして歴史探偵を自認する半藤一利さんに、下町育ちのべらんめえ調で、この混迷の時代を語ってほしかった。

 半藤さんはお母さんが茨城県出身で、私の郷里茨城県に縁があった。

15才の中学生(旧制)だった半藤さんは昭和20年3月10日、下町を襲った東京大空襲に遭う。炎の中を命からがら逃げ、母親の出身地である騰波ノ江に疎開する。下妻中学に転校し、学校工場で働くことになる。授業料を払いながら1時間も勉強することなく、ネジなどを作る作業をさせられたそうだ。

ある日親戚のおじさんと小貝川にウナギを獲りに行った半藤少年は、帰り道P51戦闘機2機に襲われる。至近距離で機銃掃射を受け、腰を抜かして動けない半藤少年を見て、戦闘機乗員はニヤリと笑った。その時、東京大空襲で経験した以上の恐怖を覚えたという。

当時、茨城は沖縄に続く米軍上陸の場と目されていた。「茨城も危ない」と言われ、半藤さんは父親の郷里である新潟に疎開していく。

 

半藤さんは旧制下妻中学に半年しか通わなかったにもかかわらず、戦後、下妻第一高等学校創立百十周年記念式典などに、来賓として呼ばれ講演をしている。下妻中学で生徒から鉄拳制裁を受けたことを語り、旧制下妻中学や茨城県人がいかに野蛮であるかを俎上にあげる。それを聴く側もうれしそうに笑っている。父たち三兄弟がその野蛮な旧制下妻中学出身で、その講演記録を読む私も頬がほころんでしまう。

コロナ禍明けしたら、半藤一利さんがウナギを獲りに歩いた下妻在の小貝川の土手を歩いてみたい。その時ウナギが捕れたのか、場所はどの辺か聞けなかったのが残念でならない。小貝川から利根川、鬼怒川辺りは、中世まで遡れば平将門が馬で駆け抜け暴れ廻った場所である。万葉集に何度も詠まれている筑波の歌垣(かがい)に続く場所でもあったろう。

縄文時代から中世、江戸時代から昭和、平成と連なる歴史を幾層にも刻んだ地面がまだ残っているはずだ。郷土の歴史の探索に出かけたいという気持ちはつのるばかり。

新型コロナよ、世界制覇はいい加減おしまいにしてどうぞお休みくだされ。