みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

はるかなガダルカナル

冬瓜(とうがん)、身体の熱を取るといわれ、夏の食卓に欠かせない。
今日は鶏ムネ肉と煮て、とろみをつける。とうがんの透き通りやわらかな食感が涼を感じさせ、食欲がない時でも食べられる。多めに作って冷蔵庫に入れ、冷たいまま食べてもおいしい。

午後になって太陽が顔を見せたので、押入れから布団を引っ張り出して干した。
スーパーに行ったら、新漁と札のついた秋刀魚が1尾98円で昨年よりも太っているではないか。
5尾買ってきて下処理をする。まず焼いて食べて、残りは蒲焼用に下ごしらえして冷凍する。かぼちゃと小豆の煮物を作り、新生姜の砂糖煮など、一日立ち仕事になった。


昨夜は録画して置いた 証言記録 兵士たちの戦争 フィリピンの市街戦と、ガダルカナルの戦い の2本をみる。ガダルカナルはどうしても見たかったので、忘れないように番組表にしるしをつけておいた。多くの人にとって、8月は北京オリンピック三昧の日々だったろう。終戦の翌年に生まれ、新しい憲法と教育が定着しつつある時代に育ちながら、なぜ私は戦争記録ものに吸い寄せられるのだろう。
私にとって、戦争は単なる過去の記録ではない。現在につながっており、進行形である。


今から8年くらい前、アルツハイマーだったか、認知症の70代後半の男性に仕事でかかわったことがある。老夫婦二人暮らしで、武士の妻を思わせる、りんとした気丈な妻が夫の世話をしていた。
夫の介護を自分の役目として、近くに住む長男家族に助けを求めることはしなかった。
しかしながら、夫が唯一受け入れた訪問看護を入れて、いずれ自分の限界を超える段階になったら、しかるべき施設にお願いするという段取りまでつけていた。私は本人の病状、体調とともに、高齢の妻の体調を気遣うことしかできなかった。

ある時応接間の長いすに妻と斜めに向かい合う形で坐っていた時のこと。妻が「病気になる前はガダルカナルのことばかりいってましたのに、病気になったら、ちっともいわなくなり、おい、会社に行くぞ。カバンはどこだって会社のことばかりいうようになって」と、妻は静かに笑った。本棚にはガダルカナルという本の背表紙が見える。
本人が書いた戦記なのか、だれが書いたものなのか。妻は続けていった。「人肉まで食べて生き延びたというのに」。私はふいをくらい、言葉を見失った。その後どんな会話を交わしたか覚えていない。


今回、証言記録 兵士たちの戦争 「ガダルカナル 繰り返された白兵突撃」をみて、ガダルカナルの戦いの実態を知る。戦車、機関銃、大砲・・・圧倒的物量の米軍相手に、刀で一斉突撃を命じられる兵士たち。さえぎる物もない照明弾で照らされた所を一斉に突撃し、銃で瞬く間に殺される。
ガダルカナルで奇跡的に生還した元兵士が「戦争に行ったのではなく、殺されに行ったんだ」「本当の戦争はどこにあったのか。指導者に聞いてみたい」と恨みの言葉をほとばしらせるのは当然に思えた。

私が関わった認知症の男性が、病気になる前は、ガダルカナルのことばかり口にしていたというのは、それだけ作戦・指揮を取った指導者への怨みが深かったということなのだろうと理解した。

この後みた「フィリピン 絶望の市街戦〜マニラ海軍防衛隊〜」も、場所がマニラの市街地という違いはあるが、無謀な作戦の下、兵士らが戦うためではなく殺されに行ったというところでは共通していた。
昭和の戦争では前途ある多くの若者の命が無駄に失われた。若者はいつの時代もいいように使い捨てされる。