みち草

2004年からはてなぶろぐを書いています。このぶろぐでは日常の身辺雑記中心に書きます。

春野菜にわくわく

気の早い桜の木がほころび始め、みずみずしい春野菜の季節が到来した。
2週間前に仕立てた糠漬けが順調だ。セロリの糠漬けをばりばりかじる。地元農家の小振りのエシャレットがこれまたおいしい。一束100円だなんて申し訳ない気分。田舎の父に糠漬けを持って行き、喜ぶ顔がみたい。大型連休までに余震と原発事故が治まってくれればよいが。

昨日、宮台真司のツイログから村上龍がニューヨークタイムスに寄稿した文章を読み泣けた。同じ東京で、村上龍地震の揺れに動顛し原発の事故に不安を募らせながらも、避難せずに今までと同じ生活を続ける決意をしたことに共感し、少し勇気を得た。
 
 【「危機的状況の中の希望」後半を転載】
私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。
今は逆のことが起きている。避難所では食料、水、薬品不足が深刻化している。東京も物や電力が不足している。生活そのものが脅かされており、政府や電力会社は対応が遅れている。
だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。


私は経済バブル時代に何の恩恵も受けなかったし、富に心を奪われもしなかった。村上龍のいう【希望】とは何だろう。人それぞれ希望の中身は違うのかもしれない。

今朝のテレビで、各国の原発を見てきたという幸田真音さんが、福島原発の事故を、「問題は電源だけだ」と、原発を肯定し、経済成長に原発は欠かせないと力説していた。小型の原発を作ればよいという人もいる。
これだけ凄まじい原発事故に震撼させられても懲りない人たちがいる。おそらく今までの経済体制で恩恵を得てきた人たちなのだろう。原発内部の整然とした制御室は見ても、原子炉近くで作業員たちがどういう状況で働らかされているのかを知ろうとしない。技術で安全は確保できると思い込んでいる。
むしろ、原発以外の自然エネルギーの技術を開発し、環境と人にやさしい、経済大国でなくとも経済中国になれば、世界から一目置かれると思いますけどね。


次はフジテレビで都知事選候補者が一同に会する番組だ。やることがたくさんあるので、フキを煮る台所とテレビを行ったり来たりしながら見る。
来週の都知事選挙投票日、意中の候補者がいないので、投票に行くのやめようかと思った。友達はワタミさんはどうかしらといっている。初めてワタミさんの話を聞いたが、ちょっとオーラが弱い。
石原氏は、築地市場の移転を進める豊洲が、今回の地震液状化の被害が出たが、築地市場は大丈夫だったと共産党の小池さんに追求され、日本の技術力で解決できるとかわしていた。
柏崎刈羽原発事故の後、日本の技術力ならできる。原発東京湾に作ってもいいと石原氏が言っていたことに対して、テレビ、週刊誌、新聞は問わない。そんな空気の中、石原続投になってしまうのだろうか。

私は東国原という人は好きなタイプではないが、今日話を聞いた中ではまあまあに思えた。遅れていて急を要する都の震災対策を身体を張って、知恵を絞り全力投球でやってくれそうな気がした。長く自公体制が続き、国会以上に風通しが悪く、伏摩殿のような都政に風穴を開けてくれる人はいないか。